【僕とアトム】



アトムは日本人ならほぼ、いや、あえて断言しよう。

「全員知っている国民的スターだ。」

僕はそんなスターの全盛期のころ夢中になった人間ではない。

しかしながら、幼少期に何度もテレビでアトムを見たし、本でも何度もみた。

でも、そうではなくっても、駄菓子屋を見て思うように、田園風景を見て思うように、夕日を見て思うように、アトムは理由なしに心の安らぎなのだ。

その不思議な理由を自分なりに記憶の階段を降りていくと、ひとつの小さな仮説にたどり着いた。


アトムは幼少の自分なのだ。



行動範囲を狭められたたどたどしい僕の手を引き、引率者として一貫してことをやり抜こうとしている父がいる。

視界を遮るモクモクとした一時的な日常の中の非日常。勝手の分からない寒暖の世界で熱く不動の釜が待っている。

もちろん、それは風呂での情景だ。40年近く前のことだ。

一日をやりきった自分を、明日という未来にキレイにして送り出す父に、押し付けがましくも少々の威厳を感じるのだ。



自分の格好を客観的に見られないのに、そんな自分にアトムを重ねるのは可笑しいかもしれない。

しかし、子供は大人が考えうる以上に創造力を持ち合わせているのだ。

アトムという自分は閉塞した状況を経験によって分析する。そして味方にしていく。

容赦なく浴びせられる42度の湯に、液体泡攻撃。足をすくおうとするツルツル魔人を乗り越え、

利き手におもちゃという子分を従えて、怒っているように見えるあの大釜の上に逆に鎮座してやるのだ。

ザブン! はっはっはっは!どうだまいたっか!


魔人たちはたちまち閉口して、子分まで受け入れる仲間となるのだ。

こうしてはだか一貫で挑戦して、一歩ずつ確実に強くなるのだ。今日も明日も!


これぞ、我こそアトム!




そんなアトム、でも本当はどんな時も優しく見守られて戦っていたのだ。
特にはだかの自分が”楽しみながら大いなるものに立ち向かえる日”つまり、子供が親と熱い風呂に楽しく入る! そのイメージが アトム=自分=やすらぎ なのだ!


 アトム=自分=やすらぎ  


知らなかった・・・・・!



でも確かにそうだった。
魔人を乗り越え、来る湯、来る湯を打ち破り、堂々と湯釜に仁王立ちしていたのは父の手回しがあったのだ。


この2014年という時代に、
SVCのアトムを見ると思い出せる。
そんな一生懸命な父と自分がいた。


アトムは強いんだ。

何でもできるんだ。

心、優しいんだ。

そして今、父になって小さいアトムを見ている。



ありがとう、お父さん。